ABOUT Mukuru AREA

About Mukuru Area in Nairobi, Kenya

植民地支配時の居住地区図1 植民地支配時の居住地区

ナイロビの成り立ち

「ナイロビ」とは、マサイ語で「Enkare Nyorobi (清涼な水)」を意味するように、元々はマサイの遊牧民がウシと山羊を群れを追ってナイロビ川の清涼な水を求めてやってくるような土地であった。ナイロビという「都市」が誕生するのは、イギリスによる植民地支配によってである。イギリスは、1895年に東アフリカ保護領を設立した後、ウガンダを開発するためにインド洋港モンバサからビクトリア湖畔のキスムまでのウガンダ鉄道の建設を開始した。1899年に鉄道がナイロビに到達すると、ウガンダ鉄道の本部がモンバサからマチャコスへ、そしてナイロビに移された。当時の居住者の多くはイギリス人、鉄道建設のためにインドから連れてこられたインド人で、アフリカ人は正規の住人として認められていなかった。その後、1902年にイギリスは、標高の高いエリアは農業に適し、生活しやすいことに気が付き、その一体を「ホワイト・ハイランド」と名付けた。ホワイト・ハイランドを国王の土地と宣言し(「王地条例」)、ヨーロッパ人の入植者に 99年間の期限1) で貸し付けたことで、多くの入植者がナイロビにやってきた。

その後1907年にナイロビはケニアの首都となった。ヨーロッパ人の数が増加するにつれ、彼らのもとで働くアフリカ人の数も増加していった。ナイロビは中心業務地区(Central Business District:CBD)、ヨーロッパ人居住地区、アジア人(インド人)居住地区、アフリカ人居住地区と明確な居住エリアが定められていき、現在は人種別の居住エリア構成は存在しないものの、所得層に引き継がれる形で当時の居住エリアが色濃く反映されている (図1)。つまり元ヨーロッパ人居住地区は現在の高級居住地区として引き継がれ、多くの外国人が居住している他、元アジア人居住地区には現在も多くのインド人が、そして元アフリカ人居住地区は現在は低所得者層居住地区となっている。当時、ナイロビ内においてアフリカ人が居住することのできる「原住民居住区」は、イーストランド地区のプムワニに限られていた2)

また、16歳以上のアフリカ人男子は登録された「原住民居住区」を離れるときにはキパンデと呼ばれるカードを携帯しなければならなかった3)。しかしながら、アフリカ人をプムワニ内にのみ居住させる政府による計画は上手くいかず、1930~40年代にかけてイーストランド地区のなかにパンガニを始めとしたいくつものアフリカ人によるアフリカ人出稼ぎ民のための町が誕生していった。そうした流れを受け、政府もアフリカ人向けの公共住宅建設を開始し、シャウリモヨなどの住宅地が形成されていった。一方、1963年にイギリス植民地支配より独立を果たした後、移動の制限の無くなったアフリカ人による農村部からナイロビへの大量の人口流入が起こった。急激な人口増加の中、低所得者層の出稼ぎ民が賃貸できる住宅は整備されず、彼らの多くはナイロビ内のスラムに居住するようになり、多くのスラムが形成されていった。

  • 1) 1915年に改定され1999年に変更された。
  • 2) 松田素二:都市を飼いならす、河出書房新社、1996、pp.86
  • 3) 宮本正興+松田素二:新書アフリカ史、講談社現代新書、1997、pp.314

ナイロビ市内のスラムの概要 

「現在、ナイロビには 100 を超えるスラムが存在すると言われ、その中にはナイロビで最も古いマザレスラムや最も巨大なキベラスラムが含まれる。一般にナイロビの スラムはインフォーマル居住地であり、農村部からの大量の出稼ぎ民によって形成される低所得者層向けの高密居住地である。これらは、「原住民居住区」の規制の無くなった1963年の独立以降に急速に拡大し、一般に旧市街地境界線のフリンジに位置している(図2)。また、元々未利用地であった川沿いや低湿地、鉄道沿い、石油パイプライン沿いなど、リスクの高いエリアに立地している他、工業地帯などの職場まで徒歩で通うことのできる距離4)に形成される特徴を持つ。

インフォーマル居住地の分布図2 インフォーマル居住地の分布

インフォーマル居住地は、スクウォッター(不法占拠)タイプと、私有地を違法に再分配するタイプの2種類に分けることができる。スクウォッタータイプが元々支配的であったが、近年のインフォーマル居住地の多くは、法律上の土地の所有者が存在しながらインフォーマルな システムによって土地の再分配が行われる後者のタイプが一般的になっている5)。そのため、法律上の所有者が権利を主張し、土地の開発のためにスラムが撤去される事例も相次いでいる。

  • 4) スラム居住者の多くは公共交通は利用せず、徒歩で近隣の工業地帯や、職の需要のあるエリアにまで通っている。 
  • 5) Matrix Development Consultants : Nairobi's Informal Settlements - An Inventory, USAID, 1993

ムクル地区について

ムクル地区は、ナイロビ市内のスラムのひとつで、1979年に発祥したとされる。ナイロビ東部の工業地域内に位置しており、 居住が一般に認められていないインフォーマル居住地である。ムクル地区は約 5㎢の面積を持ち、ここに約70,000人が居住していると言われている6)。ムクル地区は、ムクル・クワ・ルーベン(Mukuru Kwa Reuben)、ムクル・クワ・ジェンガ (Mukuru Kwa Njenga)、ルンガルンガ(Lunga Lunga)の3つのエリアで構成される。また、こうしたエリアはさらに小さな村 (Village) に分けられ、合計27の村によって構成されている。ムクル地区には鉄道(Kenya Railway)、石油パイプ(Kenya PipeLine) が北東部から南西部に平行して走っている他、スラム北部をゴング川(Ngong River) が横断している。
このゴング川より北がルンガルンガ、川と鉄道の間がムクル・クワ・ルーベン、鉄道より南が ムクル・クワ・ジェンガとなる。

ムクル地区の地図図3 ムクル地区の地図